「浴衣」  もうじき梅雨が明けると思われる頃、玉珠が藤次郎のアパートを訪ねると、藤次郎は部 屋で作務衣を着て掃除をしていた。それを見て玉珠は  「おっ…オジサンくさ…」 と、思わず言った。  「何おぅ、これこそ正しい和式の掃除スタイル(…と、藤次郎は勝手に思っている)」  それを聞いて玉珠は、わざと  「へぇーー、こう言うのって、”ワサビ”の世界よね」 と呆れ顔で言った。  「そう、これが”ワサビ”の世界だ」 と作務衣の袖を広げて返す藤次郎に、  「ちょっと、こういう時って『それは”わび・さびの世界”の間違えだろ?』くらい言 ってくれてもいいじゃない!」 と言って、玉珠はふくれた。  「解っているから、わざと肯定した」  「…もう!」 と、藤次郎は威張って言った。玉珠は藤次郎をまじまじと見ながら、怪訝そうな顔をして  「…ひょっとして、甚平も持っているんじゃないの?」 と、皮肉を込めて言う玉珠に対し、  「うん」 と藤次郎は、まじめに答えた。  「おっ…オジサンくさ…」  再び玉珠は思わず言った。  「なっ…なんだよ!」  癪に障った藤次郎が言い返すと、  「『あんたらしい』と言ったのよ!」 としらじらしく言って、玉珠は藤次郎の部屋に上がり込んだ。そして、勝手に冷蔵庫を開 けて麦茶のペットボトルを取り出し、流しからコップを持ってテーブルを前に座った。そ して玉珠は藤次郎が掃除を続けている姿を見て、  「ほら…そこにまだ埃があるわよ!」 と、いちゃもんを着けながら麦茶を飲んでいた。そして、玉珠に指図されながらも掃除を 終えて、テーブルを挟んで対峙した藤次郎の作務衣姿を見ながら、玉珠は思い出したよう に、  「ねぇ、もうじき川開きの花火大会があるから、見に行こうよ」 とテーブルに身を乗り出して言った。  「…もう、そんな時期か」  藤次郎は今頃気づいたという顔をした。  「あら、駅の広告見てないの?あんなに大きなポスター張ってあるのに…あきれたぁ」 と、本当に呆れ顔で言う玉珠に対して、藤次郎は気にせずに  「ぜんぜん…でも、行こうよ」 と言った。乗り気になった藤次郎の返事を聞いて玉珠は  「あたし浴衣着て行く!藤次郎はそれでも、甚平でもいいからさ」 とはしゃいで言った。  当日、玉珠は浴衣を着て藤次郎のアパートにやってきた。藤次郎は甚平を着て出迎えた。  浴衣姿の玉珠をジロジロ見る藤次郎に対して、玉珠は、  「あまり、見ないでよ!」 と、恥じらいながら言った。  「いっ…いや、綺麗なもので…」  照れる藤次郎に、玉珠は気分が良くなり、  「惚れ直した?」 と、微笑んで聞くと、  「うん」  藤次郎は素直に頷いた。  「…うれしい!」  玉珠は機嫌がますます良くなり、笑顔で喜んだ。  と、その時。  ”ガラガラドッシャーーーン”  「きゃーーー」  玉珠は急な落雷に驚いて、思わず藤次郎に抱きついた。藤次郎は驚きながらも玉珠をし っかり抱きとめると、玉珠越しに玄関の外を見た。  外はにわかに暗くなり、大粒の雨が降り始めていた。  「うわ…最悪!」  藤次郎と玉珠は抱き合ったまま、同時に言った。そのまま暫く抱き合って唖然として土 砂降りの雨を見ていた。気持ちが落ち着いて来るに連れ、二人の心臓の鼓動がお互いに感 じられ、玉珠は「しばらく、このままでいいかぁ…」と思って、藤次郎の胸に顔を埋めた。 が、藤次郎は下駄箱の横から蛇の目傘を取り出して、玉珠を抱きしめていた手を離して、  「さて…行こうか」 と言った。せっかくのいい雰囲気を壊されたのと、藤次郎の雨の中を出かけるという考え が解らず、  「…なんで?」 と、藤次郎を見上げて玉珠は聞いた。それに対して、藤次郎は軽く微笑んで  「これなら、ただの夕立だからすぐに止むよ。それに、早く行かないといい場所に着け ない」  玉珠は訳が分からず、ただ藤次郎に促されてアパートを後にした。  藤次郎と玉珠は一つ傘の下、駅に向かった。時々鳴り響く雷鳴に、玉珠はビクッとして 藤次郎にしがみついた。  「雷怖かったっけ?」 と、心配そうに聞く藤次郎には、玉珠が雷を怖がった記憶が無かった。  「…昔は平気だったけど、引っ越しした先が雷の通り道で、よく道の立木なんかに落ち たのを何度か見ている内に怖くなったのよ…」  「大丈夫だよ」 と、玉珠の肩を抱く藤次郎の手に力が入った。その言葉と手の温もりに玉珠は安心した。  でも、  「大丈夫、田舎道と違って、ここには高くて避雷針が付いているビルがいっぱいあるか ら…」 と続けて藤次郎が言ったのを聞いて、「所詮は藤次郎…期待したのが悪かった」と、玉珠 は落ち込んだ  藤次郎が予想したとおり、夕立は二人が電車に乗っている間に止んでしまった。  会場の河原の側の駅に降り立つと、藤次郎コンビニでビール数本とつまみを買って、人 の流れと反対側に向かって歩き出した。藤次郎の予測不能な行動に、玉珠は驚いて、  「ちょっと、藤次郎。どこ行くの?」  「いいとこ」  相変わらず、詳細を教えない藤次郎であったが、玉珠はもう慣れて、藤次郎を信じてつ いて行った。  やがてそこには、小高い丘が見えてきた。そして藤次郎はそこにある石段を登り始めた。  着物で登るのには少々きつい階段で、おまけに雨上がりで少々滑る。玉珠は片手は藤次 郎に引かれ、もう片手は浴衣の裾を押さえて横になって階段を登っていった。何度か滑っ て藤次郎に支えながら、「なんで、こんな階段登らせるのよ!」と言いかけたが、藤次郎 が珍しく気遣って手を引いているのを感じて、黙って登っていった。  やがて、周囲が暗くなり、足下がよく見えなくなりかけた頃、丘の頂上に着いた。そこ には開けた場所があり、小さな公園があった。公園の片隅には神社があった。  藤次郎は階段の横の木製のベンチに、背負っていた打飼袋からビニールシートを取り出 すと、そこに敷いた。  「どうぞ」  「ありがとう」  玉珠は藤次郎に勧められるまま、ベンチに座った。続いて藤次郎は打飼袋から、蚊取り 線香を取り出すと、火を付けて玉珠の足下に置いた。  「用意がいいのね…」 と、藤次郎の用意の良さに不信感を持った玉珠が言うと、  「まぁ、まぁ…」 と、藤次郎は言葉を濁した。  「ちょっと、ぬるくなったけど、ビールをどうぞ」 と、藤次郎は玉珠をごまかそうと、気取ってビールを差し出す。  「あら…いいわね」 と、素直に玉珠は喜んだ。  その内、”ドーーン”と言う音と共に、目の前に花火が上がった。それを見て、玉珠は どうして藤次郎がここに連れてきた意味が分かった。花火を見て藤次郎に振り返った玉珠 に、  「特等席なんだよね。ここは…」 と、藤次郎は頭を掻きながら言った。  「どうして知ったの?」  「散歩の成果だよ。以前、この辺をフラフラ歩いていて、この神社と公園にたどり着い たんだ。そこから、あの花火会場が一望できるのに気づいて、今日お玉を連れてきたのさ、 その時、蚊にかなり食われたから、蚊取り線香を持ってきたんだ」 と、藤次郎は隠さずに言った。  「へぇー、たまには藤次郎の放浪癖も役に立つのね」 と、感心して言った玉珠に対して、  「『たまには』は、ないと思うが?」 と拗ねる藤次郎に玉珠は静かに寄り添った。それだけで藤次郎は玉珠が言葉とは違って、 藤次郎に感謝しているのを感じ、静かに玉珠の肩を抱いた。 藤次郎正秀